『シェアする落語』次回は7/7です。

2012年01月02日

落語というクスリの処方について……本年も宜しくお願いいたします


大晦日はいつも通り自宅で蕎麦と天麩羅。家元談志師を偲んでJ&Bのハイボールを飲みながら吉田類の酒場放浪記を観ていたら何となく年が明けました。


2011年、とにかく生の落語にこだわり続け、ずいぶん多くの落語会に足を運びました。

その原因となったのは、おそらく東日本大震災だったと思います。

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人々が長年苦労を重ねて築き上げてきたものが、いとも簡単に破壊され、信じられない数の貴重な命が失わる。 繰り返し押し寄せてくる惨状と悲劇。 
 
テレビ・新聞・ツイッターなどを通じて、またささやかながらボランティアとして現地に赴き、この眼で見てきたことも含めて、受け止めきれないほどの現実を叩きつけられました。

うまくは説明できませんが、おそらく多くの方々と同様に、僕もまた打ちのめされたのです。
自分は、ほぼ無傷だったにも関わらず。

ただただ圧倒的に悲惨としか言いようのないこの絶望的状況に対して、対抗するための武器があるとすれば、僕にとってそれは「送り手の芸の力と受け手の想像力により構築された、そのとき限り現実を上回る虚構」と「根拠も理屈もないのに、どんな人生であろうと肯定する確信」、この二つに、身を委ねることです。

つまり、落語です。

なんだか未整理なままに、難しい話をしてしまいました。
別の言い方をすると、僕は落語を「ややこしくしんどい現実からのリセットの契機」と捉えており、昨年は大震災のせいで、リセットが必要な機会が多かった。ということになりますか。

いやもっと簡単に言いましょう。落語はクスリになります。心に効くクスリ。

そして今考えていることは、このクスリを必要としていながら、未だ服用したことのない方々に、ぜひ生の落語を体験していただきたい、ということです。

落語は本来、ひとりで聴くべきものだと思います。
高座と自分との共同作業により自分の頭のなかに作り上げた虚構に身を委ねる。委ねている客同士の緩い連帯感もまた虚構を強固なものにする。
落語とはまあ、そんな仕組みであり、客席の間には「緩い連帯」以上の関係はなくていいのです。

春風亭一之輔のまくらで
「今日のお客さんは休憩中にお喋りをしていて仲がいい。だいたいふだん落語聴きに来る人は友達がいない。ひとりで落語聴いて、聴いた後に誰かに話したくなってこうやって(携帯をいじる仕草)ツイッターやったりするんですけどね」というのがあります。うまい指摘です。

一方で、ときどき落語の最中にペチャクチャ会話する客(中高年のカップルが多い)がいます。
これは明らかに落語への破壊行為であり、「俺が木戸銭返すから家に帰れ。てめえの茶の間でテレビつけて好きなだけ喋れ」と言いたくなります。

まあそれは極端だとしても、本当は、落語はひとりで聴いた方がいい。
好きな時間に好きな席に座って聴く。帰りたくなったら帰る。それがいい。

でも、最初からひとりで生落語を楽しむというのは、実はハードルが高い。
いつどこに行けばいいのか、誰を・何を聴いたらいいのか、わからない。

多くの落語好きはそのことを忘れています。「別にさあ、難しく考えずに木戸銭払って中に入ればいいんだよ」とか言ってしまう。「木戸銭」という言葉がすでに耳慣れないものなのに。僕自身、そう言ってしまいそうになる。

また、落語がもしクスリなのだとすれば、服用法は個々の体質や病状によって違うはず。

毎週聴いた方がいい人もいれば、年に一回でも効く体質の人もいる。
全部聴いたらかなりの長時間になる定席の寄席より、もっと少人数・短時間の会が向いている人もいる
熾烈なチケット争奪戦に参加してでも人気落語家の噺を聴きたい人もいれば、僕のように「ふらっと入れる落語」「これから伸びる二ツ目の会」を愛する者もいる。
人それぞれに、その人向きの落語があるのです。

だから「そんなに落語が面白いというのであれば、連れて行ってくれ」といわれるたびに、もの凄く嬉しいと同時にもの凄く悩みます。落語というクスリの処方は、実はとても難しい。

これは、本当にただの自慢なのですが、僕と話をすると、たいていの人は落語を聴きたくなります。

それが高じて、勤務先で仲間を募り、落語初心者を率いて寄席に出かける、なんてこともしました。
「落語という薬を処方すること」の難しさはここで知ったわけです。「この人に会う落語はどんなものだろうか」と考え始めると、もう止まらないのです。考えに考えたこともあり、この企画に乗って来てくれた同僚の皆さんには概ね満足頂けたようです。
なかには、ご贔屓を見つけて、自分で落語会を探して出かけるようになった方もいます。良かった良かった。

コミュニケーションが、どんどんデジタル・ネットへとシフトしていくなかで「目の前の演者の唇が動き、そこから出てくる声により自分の想像力がフル回転し、虚構に身を委ねることができる時間」すなわち生の落語こそが、都市生活者にとってのリセットスイッチ、ココロのクスリになるのではないか。

僕が考えているのは、そういうことです。
 
そんなわけで、最近は「落語に興味がある人、落語というクスリを必要としている方が、初めての落語をスムースに体験できる機会を作ること」について考えています。
残念ながらどうしても東京周辺に在住・滞在する方が中心になってしまいますが、何か自分にできることはないか、 できれば何か仕掛けてみたいなと思っています。 

クスリの飲みすぎには十分注意しながら(『金玉医者』だね。こりゃ)。
 

最後に、旧年中僕に落語を聴かせてくれた数多くの落語家のみなさんにお礼申し上げます。

大震災と落語の関係について考えるようになったのは雷門獅篭さんの2011東京落語会I@神保町らくごカフェ立川談笑師匠の独演会 第三回 緊急 亀戸寄席 がきっかけでした。ありがとうございました。
 
打ち上げなどに混ざって、落語家の方々と直接お話をする機会が増えたのも有り難いことでした。
特に立川談四楼師匠とは3回も酒席でご一緒させていただき、貴重なお話を沢山お伺いしました。

他にも雷門獅篭さん・立川キウイ 師匠 ・春風亭一之輔さん・立川談吉さんにお礼申し上げます。立川談笑 師匠や古今亭菊志ん師匠 とはツイッターでのやりとりで楽しませていただきました。

皆さんありがとうございました。


本当は、落語のほかにもカーリング・野球・ラグビーなどのスポーツネタ、映画、音楽、読書などのことも書きたいし、仕事の話や昨今のメディア状況に関しても言いたいことは山ほどあるのですが、なかなか手が回りません。

僕の考えていることにご興味あるという奇特な方がいらっしゃいましたら、ツイッターのほうをフォローしていただきたく。相当にくだらないつぶやきも多いので、特にお勧めはしませんが。

何はともあれ、好きなことをブログに書いて、しかもそれを読んでくれる方が存在することは、とても有り難いことだと思っています。落語会で声を掛けていただくことも増えました。嬉しいことです。

今年も相変わらず暇を見つけてはたらたらと駄文を重ねていくことになるかと思いますが、宜しくお引き立てのほど、お願い申しあげます。


m_shike at 13:07コメント(0)トラックバック(0)落語  このエントリーをはてなブックマークに追加

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