『シェアする落語』次回は7/7です。

2009年03月12日

正論原理主義に効くクスリとしての落語


二人会 開演前
二人会 開演前 posted by (C)[4k]shike

村上春樹、相変わらず説得力がある。

 一方で、ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、ひとつには僕が1960年代の学生運動を知っているからです。おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。そういうのを二度と繰り返してはならない。

『文藝春秋』2009年4月号の村上春樹さんへの独占インタビュー「僕はなぜエルサレムに行ったのか」より。  活字中毒R。



まあ保守思想だろうがマルクス主義だろうがイスラムだろうが「原理化」した時点で論理のみが暴走し、暴力を正当化して行ってひどいことになる。論理が暴走すると、もう、元の思想とはどんどんかけ離れていく。オウムなんかもそう。

で、いきなり話を転換させちゃうと。

そういう正論原理主義の対極に、僕は「落語」があると思っています。



まず家元・立川談志が言うところの「業の肯定」。
人間という存在をもともと「いいかげんで、やらないほうがいいことをついやる、わかっちゃいるけどやめられない、つまりはどうにもしょーもない」ものとみなし、その「しょーもない」部分を拡大して笑いに持っていくことで、その存在を肯定する。

もうひとつは美意識。
これは江戸方で強い傾向だけど、損得・正誤といった「論理」から離れた「粋-野暮」という美意識に基づく価値判断を肯定する。

この二つが落語の背骨だとすると、これはもう正論原理主義になりようがない。というより正論原理主義ネタにして、その如何わしさを浮き彫りにするのが落語の特性…ただし目的ではない…なのだと思うわけでございまして。

ネット登場以降のとんでもない情報過多時代においては、人々は情報に振り回され、たびたび迷うことになります。
その結果として「純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残」るような、つまりは正論原理主義が幅を利かすことになると、これは大変やばいのでございます。浅間山荘のような、あさましいことになるのでございます。


というわけで、落語は今を生きていくうえで重要なクスリとなるのではないかと思う次第。


ただ面白いのは、ネットコミュニティにおいては、正論原理主義も落語的人間肯定も、実はどっちもあるのですね。
たとえば2ちゃんねるにおいては極めてゆるいルールしか存在しないため、もろもろ問題が起きますが、ルールがゆるい故に、独特の美意識が生成され、時になんとも粋な話も出来上がったりします。ぶんぶんに正論原理主義を振り回している奴は厨扱いされたりしてね。

もちろん美意識だけでそう簡単に何かが解決するわけではないのですが、論理が絶対ではないということを認識することも大切なんじゃないかと思うわけですよ。

だいたい落語って、多くの噺が何の解決もせずに、すとんと終わっちゃうしね。



…なんてこと言っちゃうのも、これまた野暮なんですけどね。 へい、失礼いたしました。

このあたりいつか改めて語ってみたいもんでございます。スパッとこう、粋にまとめてね。

m_shike at 19:48コメント(0)トラックバック(0)落語  このエントリーをはてなブックマークに追加

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